転職のきっかけ(4)

カゴの中のおもちゃを出していっても、男の子はぜんぜん興味を示さなかった。

「ほら、電話だよー!リンリンリンて音が鳴るよ?」

と言っても、こちらを見ようともしないし、ママにくっついて離れようとしない。
言葉はしゃべれないみたいだけど、その様子を見て「ママと一緒に帰りたいんだ」と思った。
だけど、看護師としてこんな状態のママさんを家に帰す訳にはいかない。
すると、ママさんが言った。

「ごめんなさい、この子は車にしか興味がないんです」

え、と思った。

「車だけ、ですか?」

「はい、車でしか遊ばないし、車のおもちゃばかりで遊ぶんです」

そうなのか・・・と、その時閃いた。

「ちょっと待ってて下さい」

私はその部屋を飛び出して、近くにある看護師の休憩室に入った。
確か、この前買った缶コーヒーについていたおもちゃの車をここに置きっぱなしにしていたはずだ。
片付けベタは私は、何でもロッカーに放り込んでそのままにする癖がある。
だから、その車も絶対にあるはずだ・・・と思っていたら、あった。
手のひらに収まるほどの小さい消防車を持って、私は再び部屋に戻った。

「ほら、●●くん車だよ、格好いいねえ・・・」

そう言って差し出すと、●●くんは初めてこちらを見て、私の手から車を取った。

「ウータンタン、ウータンタン!!」

泣き顔から一気に笑顔になった●●くんは、何度も「ウータンタン」と叫んだ。
考えてみたら、この子の口から言葉を聞いたのは初めてかもしれない。
すると、ママさんが言った。

「ウータンタンって、消防車のことなんです。

「消防車?」

私は問い返した。

「消防車って、火事になるとウーカンカンっていいながら走るでしょ?この子は小さい時からパトカーとか救急車が好きだったんで、消防署みながらウーカンカンって教えてたんです、そしたら消防車じゃなくてウーカンカンって覚えちゃって」

ママさんは、恥ずかしそうな、だけど嬉しそうな顔で微笑んだ。
その顔を見て、私もなんだかうれしくなった。

「そうなんですか、でもかわいいですよ?ウーカンカンって確かにそうやって走りますもんね」

「そうなんですよ・・・この子は一度覚えたらなかなか修正が聞かなくて、消防車っていまだに覚えないんですけど・・・でも、初めてしゃべったのがウーカンカンだし、嬉しかったし、もうこのままでいいかなって」

そういうママさんの目は優しくて、本当に子供が喋ったのが嬉しいんだって顔だった。
その時の感情はうまく言い表せない。
看護師の私は、今までも何度か障害児に会ったことがある。
みんな親御さんは大変そうだった。
だけど、みんなこういう目で子供のこと見てたなってことを思い出した。

「かわいいですね、●●くん」

私は言った。
本当に可愛いと思った、心からの言葉だった。
だけど、その言葉でママさんがうつむいた。

「ありがとう」

「今まで、外で可愛いなんていわれたこと、ないから」

その時鼻をすすった音が聞こえて、ママさんは泣いているんだって、解った。

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